忍者ブログ

2024
05
19

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2024/05/19 (Sun.)

2011
05
24

浮遊する「芸術」は成立しうるか?



ある物象を肯定的に形容するときに、

「芸術の領域に達している」という文句が使われることがある。

この言い回しは、少なくとも僕には、

あらゆる領域から切り離され浮遊する超越的な、あるいは繋がってはいてもあらゆる領域に偏在する存在として「芸術」という雲または空のような領域があるということ、そしてそのことがすべての人に共有された前提としてとらえられていること、を表しているように思われる。

はたしてそんなものが存在するのだろうか、ということが僕には疑問なのである。

形而上学や哲学のように、あらゆる領域に普遍的あるいは超越的な領域として、芸術や文学といったものがいかに成立するのだろうか?

「芸術とはなんだと思いますか?」「あなたにとって芸術とはどんなものですか?」という問いに対しては、「パワーや想像力を与えてくれるもの」「癒しや救いを与えてくれるもの」「既成概念をぶち壊し、新たな価値を創造するもの」などといった答えが返ってくることは想像に難くない。しかしそのような回答は芸術の性質や特徴について語られたものであり、「芸術とは何か」という芸術の輪郭やその立脚する地面を示すものではない。

芸術作品でなかろうとも、想像力や癒しを与え新たな価値を創造するものはあるだろう。

つまり、パワーや癒しを与える、既成概念を変革し新たな価値を創造する、といった特徴は、芸術のみに特徴的な性質ではないのだ。

ではいかにして超越的で普遍的な芸術あるいは芸術的価値といった領域が多くの人々に了解されるのだろうか。

芸術的価値という言葉を用いるならば、各個の芸術作品そのものではなく、作品に内在あるいは外在する価値といった空気のような目に見えないことを語ることができる。

言ってみればこれは「文章」に対する「文脈」のようなものであろうと僕には思われる。

文脈は文章がなければ成立しえない。

(langue がなければ langage は存在し得ないか?)

しかしその文脈を文脈として認識できるからには、いわばこのような目に見えない空気のような、オーラのような、芸術的価値という文脈の集合体が、超越的な「芸術の領域」として考えられているという仮説は考えられるだろう。

その場合、人々は「文章なき文脈」を「芸術的価値」として享受している、ということになる。

そして「芸術の域に達する」という言い回しは、ある物象がその「文章なき文脈」を主張し始める、という意味になる。

たしかにこれなら普遍的超越的な芸術の領域は成立可能である。

しかしそれなら、文章を持たない文脈が成立しうるのだろうか、という疑問が生まれざるを得ない。


僕は今ここでこの疑問に対する答えを出す意図もなければ能力もない。

ただ、いかなる領域からも切り離され浮遊する、あるいはあらゆる領域に偏在可能な「芸術の領域」の存在を無批判に受け入れ思考される言説があまりにも多すぎるように思うのだ。

創造を自分の問題としない享受側の人間であればともかく、芸術創造をする製作者としてのアーティストや作家らがこの問題に対し無批判な創造行為や言説を為す姿を見るにつけ大いに疑問である。

「芸術の力で」社会を元気にする、地域を活性化する、被災地を笑顔にする、といった心意気は尊いものであるし、彼らを批判する気などはないが、「ではそもそも芸術とはなんですか」といった問題に対し自分の答えを持ちなおかつそれを外面化していなければ、「芸術(的価値)」といった目くらましで人々を煙に巻くだけの自己満足に終わってしまう危険性は十分にあるということは理解されていくべきであると思う。



PR

2011/05/24 (Tue.) Trackback() Comment(0) 戯言

Comments

名前
メールアドレス
URL
コメント
PASS  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

Trackback

Trackback for this entry:

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

リンク

最新コメント

[06/11 (´・ω・`)]

最新記事

プロフィール

HN:
AVIDA DOLLARS
性別:
非公開
趣味:
いい