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叫べ!田舎者
自分はすごく田舎者だなあと思う。
そして同時に自分が田舎者であるということをすごく嬉しくも思っている。
東京に出てきていろんな人の話を聞くことが多いわけだけれど
偉い学者先生やら若い大学生やらチャラいのとか真面目なのとかいろいろいるけれど
「都会人だなー」という感想を覚えることも多い。
云ってることはわかるし、話も面白いし、確かに東京で生きていくにはすごく面白くていい意見や考え方だなあと思う、こともある。
けれどたとえば地方に暮らしていたり、地方出身で都会に出てきていていずれ地方に帰ろうと思っている人間にとっては、他人事のように聞こえることが多いのも事実。
感覚が違うんだろうなあ。
どっちがいいでもどっちが悪いともいっているのでもなく。
なんていうんだろう
「主体性」みたいなものを過剰に意識してるなあという、「違和感」、かな。
東京に住んでるから田舎との違いもものすごく感じている。
まあここで注目すべきは「選択肢の多さ」なんだろう。
遊び方も学び方も働き方も移動手段も生き方も人種も無限な多様性を持つこの街と
バスも電車も2~3時間に一本しかなく遊ぶところも学ぶところも数えるほどしかなく四季の変化がとんでもなく自然界の法則の中でそれに寄り添う形で生きるしかないような田舎とでは
生き方の選択肢の数に何百倍もの違いがあるわけだ。
つまり都会では「如何様にでも生きられる」わけだな。
如何様にでも生きられるのなら
「主体性」が重視されるという理屈もすごく筋の通ったもんだ。
流れに任せていてはどこに流れていくのかわかったもんじゃないしね。
しかし田舎じゃそうは行かないさ。
選択肢が限られているから
まあみんな似たような道しかないのさ。
夜には町が動いてないからみんな寝ちゃうしね。
働く場所も方法も学ぶ場所も少ないからね。
さらに重要なのは
田舎では自然の変化に合わせてしか生きられないってこと。
農業や漁業は
自然の法則に逆らっては成り立たないんだよ。
延々吹き荒れる暴風雪に対しては
もはや為す術がないんだよ。
文明的に生きるにはここでも主体性が大事なのは云うまでもないけれど
自然の中で生きるにはある程度の受動性ってのも重要になってくるんだね。
北国の人間が耐え忍ぶ人間だってことはむしろ北国を離れて実感していることです。
東京に出て来て以来僕に足りないものは、部屋の窓を開ければいつでも聞こえていた波の音なんだ。
鳥海山の残雪が「種をまく人」の姿になったら田植えの季節です。
2010/04/15 (Thu.) Trackback() Comment(1) 戯言
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そういう意味では「都会の方がなにもない」という言い方もできるのかな(・・?)
周囲になにもないからこそ主体的に生きなければ生き延びられない。
周囲に頼れる対象があるならば、ある程度「体をあずける」という姿勢も可能になるはず。
(´・ω・`) 2010/06/11 (Fri.) 16:58 edit