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2024/05/05 (Sun.)

2012
12
04

PERSONA NON GRATAのみんなへ

ダンスミュージックっていう音楽が突然聴きたくなってね。
 
CDショップに行って買ったのが『Dancemania summers 2』だったんだよね。
 
たしか小5の時。
 
ほとんどジャケ買いだったんだけどこれがいい選曲のオムニバスでね、
 
ダンスマニアシリーズはその後何枚か聞いたけど中でもかなり上位に来るくらい好きなアルバムだったんだよね。
 
それが幸いしてそこからダンスミュージックを聞くようになったんだよね。
 
今考えたら小5でダンスミュージックって早いなって思うんだけど、
 
まあそれもひとつのターニングポイントだったんだろうなって思う、今は。
 
そんで中学2年の時。
 
当時ダンスミュージックが結構メジャーに流行ってて、時代的にはパラパラとかを踊るユーロビートってのがテレビでもよく聴かれてた時期だよね。
 
より正確に言えばユーロビートは下火になりつつあって、よりコアなトランスっていうジャンルがすごい勢いで流行し始めた時期だったんだけどね。
 
現役DJがクラブでよく使う曲を集計して毎週ランキング形式で紹介するっていう番組が当時深夜にテレビでやっててね、毎週録画して見てたんだよね。そういえばあの頃はまだVHSだったなあ!
 
そのランキングを楽しんで見てて、多くがトランスで激しい曲調が多い中にときたま爽やかだったりファンキーだったりする曲が出てきて非常に楽しかったんだけど
 
ある日そのランキングの中に出会ったんだよね
 
MONDO GROSSOのLife feat.birdに。
 
すごく衝撃的だった。
 
でもすごく柔らかな衝撃だった。
 
すごく爽やかで、やわらかくて、あたたかくて。
 
こんな音楽があるんだって、胸が熱くなったよね。
 
この曲に出会ったあの瞬間が、僕の人生を大きく変えたんだって、今はっきり言える。
 
地元じゃメジャーなCD以外手に入らないから、
 
修学旅行で東京に来た時、でかいCDショップでやっと見つけたMONDO GROSSOの『MG4』を買って、思う存分Life feat.birdを聞いた。
 
MG2SSも聞いた。NOW YOU KNOW BETTERも聞いた。MG4BBも聞いたしCENARIOも聞いた。
 
いくら聞いても飽きなかった。
 
僕はその後も何千枚っていうCDを聞いてきたけど、いちばん好きなアルバムは『MG4』だって胸張って言える。
 
そのくらい大きな出会いだった。
 
MONDO GROSSOの音楽に特徴的なおしゃれな音ってどうなってるんだろう、ピアノとかすげーかっこいいけどどんなコード弾いてるんだろうと思って、よく「ジャジー」って言葉が使われるからちょっとジャズを聞いてみようかなと思って「The Best of Jazz Standard」っていうジャズの名演奏を集めたオムニバスを買った。
 
中学3年くらい。ジャズとの出会い。
 
高校に入って吹奏楽部に入部した直接的なきっかけはSKA SKA CLUBとかLONG SHOT PARTYとか別の音楽の影響だけど、
 
吹奏楽部にいながらあんまりクラシックに惹かれることなくMONDO GROSSOやFantastic Plastic Machineばかり聞いていたりPE’Zに夢中になったりしてたのはやっぱりジャズを聴いてたからだしね。
 
それから、
 
東京にある大学に行こうと思ったのも、実は成績とかじゃなく音楽が理由なんだよね。
 
サックスは大学入ったらはじめるつもりだったし楽器はまあなんでもいいんだけど、MONDO GROSSOとかFPMとかPE’Zとか、メジャーな流行りの音楽ではないしジャズド真ん中でもないし、すごく区別の付けにくい人口の狭い音楽をやりたかったから、出来る限り人口の多い町に行こうと思ったんだよね。
 
人が多ければ、いろんな人がいて、僕みたいな変わった音楽を好きだ、一緒にやろう、と言ってくれる稀少な人たちと出会える可能性が高いと思ったんだ。
 
だから、東京の大学にした。
 
学力とか得意科目とかは二の次だったね。
 
そして、ジャズ研に入った。
 
まあジャズ研でも僕がやりたい音楽って実現しにくいからちょっと苦労したんだけどね、
 
それでもやっぱり僕の読みは合ってた。
 
僕のやりたい音楽に共感してくれる人たちに、幾人か出会うことができたんだ。
 
「ブラ研とコラボしようぜっていう話があるんです」っていう話を聞いたときは本当に嬉しかった。
 
外大にブラジル研究会っていうサンバをやってるサークルがあるってことを知ってから、「あの曲」をやるならブラ研とコラボしたいな、って
 
1年生の時から考えていたから。
 
そして
 
1年前の今日
 
「Life」を、サンバチームとコラボして、演奏するっていう僕の中学からの夢を
 
実現することができたんだ。
 
本当に忘れられない一日になった。
 
ある意味では僕は
 
「Life」をやるために東京に出てきたんだから。
 
むしろあのタイミングでなければ、あれだけの様々な楽器を揃えて、あのメンバーと、みんなと、一緒に演奏できるタイミングなんて、今後来ないだろう。
 
僕は幸せ者だ。
 
あの日出会ったあの音楽に、少しでも近づくことができたんだ。
 
みんなと。
 
 
 
僕はお酒が飲めないし飲み会の雰囲気ってあまり好きになれないんだけど、
 
PERSONA NON GRATAのみんなとなら、また一緒に騒ぎたい、お酒が飲みたい、また一緒に演奏したいって、
 
素直にそう思えるんだ。
 
PERSONA NON GRATAのみんな、本当にありがとう。

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2012/12/04 (Tue.) Comment(0) 戯言

2012
09
19

映画性、絵画性、逸脱の定型

この間まで映画って静かで波乱の少ない穏やかな作風が好きだったんですよね

勉強として黒澤明もヒッチコックもゴダールもスピルバーグも見てたけど好みはアンゲロプロスだったり

で、今日久しぶりにバックトゥザフューチャーを見てて気づいたんですよ

こういういわゆるハリウッド映画ってさ

ワンパターンだったりインパクト重視でストーリーがつまんなかったりでよく叩かれるけど

逆に言えばハリウッド映画並の視覚効果(SFXっていうの?)って

映画でしかできない表現なんじゃないかな

って思ったんですよね

本ではできないしテレビ番組でも予算とかで難しいし音楽でもできないし

あれだけの激しい映像を表現できる媒体が映画だけだとしたら

その映画性というのか

映画だけにしかできないことを存分に生かした作品を作るっていうことが

ものすごく評価できるんじゃないかって思ったのね

僕は映画評論とか読まないからそんなことはすでに語られ尽くされたことなのかもしれないけど

僕は今日になってそこに気づいたのね

残念ながらその言説を乗り越えることなく同じ作品を生み出し続けているハリウッドのマンネリがハリウッド映画批判を生み出しているのかもとの想像も含めて。

そんでそこまで考えて

それって絵画の領域において19世紀ヨーロッパで抽象絵画や象徴主義絵画が生まれた原因となった絵画の自己意識化と同じ問題系なんじゃないかなって思ったのよ

まあ絵画自体は意識を持たないから正確には絵画が絵画であるという絵画性を画家が強く意識したことを指すわけだけれど

写真っていう実景を正確に写し出すメディアが生まれて普及してさ

本物そっくりに描かれることを売りにしていた絵画の存在意義が大きくぐらついたんだよね

そうして生み出されたのが絵画にしかできない表現で描かれた抽象画や象徴主義絵画だったわけだ

もとから宗教画やなんかみたいな空想ストーリーも絵画だからこそ描けてたわけで

その絵画にしかできない表現を強く押し出さざるを得なくなった、そうしないと絵画の存在意義が消えてしまうかもしれない状況にまで追いやられたのが写真の出現によるものだったわけだ

そういうものすごく自身が絵画であるということを意識した現象って

ハリウッド映画における映画表現の発達と似たものなんじゃないかなっておもったのよね

ただまあそこにもちょっと不満みたいなものはあってさ

ハリウッド映画のいわゆるワンパターンと呼ばれるものがそれなんだろうけど

自己意識の方法がなんか全部似たりよったりなんだよね

これって人の性格やファッションの分類とかにも言えて別に記事書こうかなと思ってるけど

何にでも主流とか王道みたいなものがあってさ

そこからはみ出してメインストリームじゃない表現をしたがるのはよくある普通の心情じゃん

それはわかるんだ俺もそうだし

ただそのはみ出し方っていうかさ

要するに主流からの逸脱の方法みたいなものにも型やパターンが存在しちゃってて

はみ出すのにもパターンという型から抜けられる人ってものすごく少数だよなって思うの

それと似ててさ

ハリウッド映画の自己意識から生み出される映画性の自覚の表出が

いくつかのパターンにはまってて

つまんねーなーって

思ったのよね

まあ映画の場合裾野が広くて僕が知ってるよりいろんな人がいて

型から抜け出したいろんなパターンがあるんだろうけど

それらは大きな声で宣伝されにくいから

出回ったり知られる機会も少なくって

それも残念だなーって

思ったんだよね

2012/09/19 (Wed.) Comment(0) 戯言

2011
12
25

メモ:道を歩くときに端に寄ってしまうことについて

道を歩くときについ無意識に端に寄っちゃうのは、車や自転車が闊歩してる現代人の心性だろうか。

牛車や人力車があった時代ならまだしも(それも日本全体で言えばほんの一部だが)、それ以前や田舎では道の端に寄って歩いちゃうっていう心性は醸成されていなかったんじゃないか?

時代劇などでの描写は現代人の心性がつい無意識に反映されて寄って歩いてるんじゃないか?

浮世絵や錦絵、洛中洛外図などではどう描写されてる?

2011/12/25 (Sun.) Trackback() Comment(0) 戯言

2011
12
22

Photoshopの存在意義とカメラの限界について

コンパクトで操作も簡単でどんな写真でも取れてしまうカメラが普及し、多くの人々が気軽に写真というものを楽しめる時代になったと。

これは観光業の発達とも相まっているんじゃないかと今思いついたけどまあそれは置いといてだ。

あと「写真とはつまりアートだよ」となんでもアートに帰着させればいいみたいな言説もあまり好きではないので写真とはつまりアートなんだよとは言いたくないけどまあそれも今日の話題とちょっと違うから置いといてだ。


Photoshopをはじめとして写真を好きなように加工するツールが一般に普及してだね、一般人のみならずメディアもそれら写真加工ツールを利用して自分たちの撮った写真を思い通りに変形させて伝えることができる時代であるわけだな。

ネット上ではPhotoshopの加工が失敗したまま週刊誌などの雑誌に掲載されてしまった写真を槍玉に上げて論ったり、アイドルやモデルの顔や体型を修正して掲載されたものと修正前の写真を(どこから手に入れてるんだかわからないけど)並べて「うわーこのアイドル腹たぷんたぷんじゃんwww」つって弄ってるわけだ。

TVで心霊写真の特集番組が減ったのもそういう加工がいくらでもできる時代だから、どんな怖い写真が出てきても「フォトショでしょ」の一言で片付けられてしまう、たとえ本物の心霊写真だったとしてもフォトショ加工の写真がそれともはや区別がつかないクオリティにあるから、純粋に心霊写真だつって怖がることができなくなったからという話は小耳に挟んだことがある。

で、そういう状況を以って僕らは「Photoshopがあるんだから写真の可能性は無限に広まった」という認識を持つのが普通なんだな。

しかし一歩進んで考えるとだね、「Photoshopがなければこんなに思い通りの写真が出来上がることはなかった」という言い方もできるんだな。

Photoshopっていうのはつまり”理想通りに撮れなかった写真を理想通りに加工するツール”なわけだ。

ってことはよ、逆に言えば、”やっぱりカメラには限界があって、自分の思い描く理想の写真を撮ることはやはり未だに非常に難しいことである”ことの裏付けになるんじゃないかな。

カメラや写真の可能性が広がったんじゃなく、生のカメラや写真では、これ以上はデジタル加工しないと理想通りの写真にならない、っていう限界ラインを引かれた、ってことじなんじゃないかな。

”トップアイドルのお腹が予想以上にタプンタプンだった・・・”っていう圧倒的現実を前に、出版社ではなんとか”くびれたスタイル抜群のトップアイドル”っていうイメージを作り出すためにフォトショ加工しなければならない。

それはつまり、デジタル加工しない生の写真では、”トップアイドルのたぷんたぷんのお腹”という圧倒的現実をまざまざと写し取ることになり、理想のアイドル像を生み出す限界を超えることはできない、っていう「限界」の生成なんじゃないかと。

今思ったんです。


おわり。



(NHKBSプレミアム たけしアート☆ビート「坂田栄一郎」 を見ながら)

2011/12/22 (Thu.) Trackback() Comment(0) 戯言

2011
05
24

浮遊する「芸術」は成立しうるか?



ある物象を肯定的に形容するときに、

「芸術の領域に達している」という文句が使われることがある。

この言い回しは、少なくとも僕には、

あらゆる領域から切り離され浮遊する超越的な、あるいは繋がってはいてもあらゆる領域に偏在する存在として「芸術」という雲または空のような領域があるということ、そしてそのことがすべての人に共有された前提としてとらえられていること、を表しているように思われる。

はたしてそんなものが存在するのだろうか、ということが僕には疑問なのである。

形而上学や哲学のように、あらゆる領域に普遍的あるいは超越的な領域として、芸術や文学といったものがいかに成立するのだろうか?

「芸術とはなんだと思いますか?」「あなたにとって芸術とはどんなものですか?」という問いに対しては、「パワーや想像力を与えてくれるもの」「癒しや救いを与えてくれるもの」「既成概念をぶち壊し、新たな価値を創造するもの」などといった答えが返ってくることは想像に難くない。しかしそのような回答は芸術の性質や特徴について語られたものであり、「芸術とは何か」という芸術の輪郭やその立脚する地面を示すものではない。

芸術作品でなかろうとも、想像力や癒しを与え新たな価値を創造するものはあるだろう。

つまり、パワーや癒しを与える、既成概念を変革し新たな価値を創造する、といった特徴は、芸術のみに特徴的な性質ではないのだ。

ではいかにして超越的で普遍的な芸術あるいは芸術的価値といった領域が多くの人々に了解されるのだろうか。

芸術的価値という言葉を用いるならば、各個の芸術作品そのものではなく、作品に内在あるいは外在する価値といった空気のような目に見えないことを語ることができる。

言ってみればこれは「文章」に対する「文脈」のようなものであろうと僕には思われる。

文脈は文章がなければ成立しえない。

(langue がなければ langage は存在し得ないか?)

しかしその文脈を文脈として認識できるからには、いわばこのような目に見えない空気のような、オーラのような、芸術的価値という文脈の集合体が、超越的な「芸術の領域」として考えられているという仮説は考えられるだろう。

その場合、人々は「文章なき文脈」を「芸術的価値」として享受している、ということになる。

そして「芸術の域に達する」という言い回しは、ある物象がその「文章なき文脈」を主張し始める、という意味になる。

たしかにこれなら普遍的超越的な芸術の領域は成立可能である。

しかしそれなら、文章を持たない文脈が成立しうるのだろうか、という疑問が生まれざるを得ない。


僕は今ここでこの疑問に対する答えを出す意図もなければ能力もない。

ただ、いかなる領域からも切り離され浮遊する、あるいはあらゆる領域に偏在可能な「芸術の領域」の存在を無批判に受け入れ思考される言説があまりにも多すぎるように思うのだ。

創造を自分の問題としない享受側の人間であればともかく、芸術創造をする製作者としてのアーティストや作家らがこの問題に対し無批判な創造行為や言説を為す姿を見るにつけ大いに疑問である。

「芸術の力で」社会を元気にする、地域を活性化する、被災地を笑顔にする、といった心意気は尊いものであるし、彼らを批判する気などはないが、「ではそもそも芸術とはなんですか」といった問題に対し自分の答えを持ちなおかつそれを外面化していなければ、「芸術(的価値)」といった目くらましで人々を煙に巻くだけの自己満足に終わってしまう危険性は十分にあるということは理解されていくべきであると思う。



2011/05/24 (Tue.) Trackback() Comment(0) 戯言

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